19世紀における電気や磁気に関する科学的解明の進展 19世紀後半における白熱電球の発明、発電事業の勃興 | ||||||||||||||||||||||||
初期のコンピュータやラジオ・・・回路に真空管を使用 | ||||||||||||||||||||||||
真空管という部品の技術的問題点
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真空管に関わる技術的問題の解決をもたらす技術革新の必要性 | ||||||||||||||||||||||||
真空管と同様の機能を持ち、なおかつ、低発熱量・低消費電力で 壊れにくい(信頼性の高い)電気素子への技術的needsに対応した発明 |
トランジスタという新しい部品の発明(1947) 1947年のクリスマスの2日前に、ショックレー(Willliam B. Shockley,当時はAT&Tのベル電話研究所の研究員であった)らが発明 (AT&Tのベル電話研究所の同僚であったバーディーン(John Bardeen)とブラッタン(Walter H. Brattain)が点接触型と呼ばれる構造のトランジスタをまず発明した。しかしこの点接触型トランジスタは、安定性に欠けており実用的ではなかったので、ショックレー氏がこの二人の発明をさらに発展させ、接合型と呼ばれるトランジスタを発明した。) | |||||||||
ショックレーの研究チームによる4年間にわたる改良 | |||||||||
(1952年には最初期のモノの10分の1の大きさ) | |||||||||
1957年には年間3,000万個のトランジスタが生産されるまでになる 1960年にはDEC社がIBMに先駆けて、真空管の代わりにトランジスタを使用したコンピュータを製作した | |||||||||
トランジスタの発明により開けた新しい技術的可能性=小型化 (真空管に比べトランジスタは小型化が可能)
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(1)ショックレー半導体研究所(1956)での試みの失敗 | ||||
ショックレーは、トランジスタの発明当時はAT&Tのベル電話研究所の研究員であったが、シリコン・トランジスタについての研究を進めるうちに「シリコン・トランジスタは将来巨大なビジネスになる」と確信するようになった。そのため、ベル研究所をやめ自分でトランジスタの商品化(量産化)を目指すことにした。 その当時は、シリコンではなくゲルマニウムを用いたトランジスタの市場が拡大していた。それに対してシリコン・トランジスタは、その実用化研究が遅れてはいたが、高温になっても性能が落ちない(動作温度範囲が広い)などゲルマニウム・トランジスタよりも技術的性能が良かったので、その将来性は高いと考えられていた。
原料としてシリコンが有利な理由は、高温で性能が落ちない(動作温度範囲が広い)ことのほかにも下記のようにいくつかある。 | ||||
ショックレーは、アメリカ中から若手の有望な研究者を集め、1956年に自分の生まれ故郷のカリフォルニア州マウンテンビュー(そのあたり一帯が後にシリコンバレーと呼ばれるようになる)にショックレー半導体研究所を創立した。(なおショックレーはトランジスタの発明に対して同年末にノーベル物理学賞を受賞している)。 その研究所の研究員には、ムーアやノイス[Robert Norton Noyce,1927-1990](この二人は後のインテルの創立者)らがいた。(ムーアは、ショックレー本人からの電話を受けて研究所への参加を求められている。) | ||||
(2) フェアチャイルド・セミコンダクター社の設立、および、そこにおけるシリコン・トランジスタの実用化 | ||||
しかし結局のところ、ショックレー半導体研究所におけるシリコン・トランジスタの開発は失敗した。そうなった原因の一つには、ショックレー博士の経営者としての資質の問題があった。 ムーア氏とノイス氏は、研究所長のショックレーの開発方針と対立したことやショックレー博士の性格等の問題から、同研究所を1957年8月に退社した。その際にムーア氏とノイス氏は自分たちも含め全部で8人の仲間と一緒に研究所をやめた。そのため彼らは後に「8人の裏切り者」と呼ばれることになった。 ムーア氏とノイス氏は、研究所をやめた後、ハイドン・ストーンという投資銀行のアーサー・ロック(Arthur Rock)[アーサー・ロックは後に米国で初めてのハイテク企業向けベンチャーキャピタルを設立した。その後、ロックはインテルやアップルの設立にも協力した。]の助力を得ながら、シリコン・トランジスタの実用化を目的とした会社を設立するため資金集めに奔走した。半導体に関心があると思われる30社以上に手紙を送り、ロックが一社一社出かけて行ったが、すべて門前払いされた。 その後、個人の事業家を対象として活動をおこない、結局のところシャーマン・フェアチャイルドから、2年後に全株式を買い取る権利を認めた上で130万ドルの融資を受けた。[シャーマン・フェアチャイルドの父親はIBMの設立に協力した人であり、その関係から、シャーマン・フェアチャイルドはIBMの個人筆頭株主であった。フェアチャイルド氏はすでに経営の第一線からは退いていたが、新しい技術に対する関心は強く、ロック氏の話を聞き、すぐに協力を決めたと言われている。] 融資を受けたことから、社名を フェアチャイルド・セミコンダクター社と決め、1957年10月に設立した。 |
(1) 電子回路を作成する新しい技術としての、プリント配線技術の開発(1940年代後半) | ||||
最初はトランジスタ、ダイオード、抵抗器、コンデンサーなどの部品(素子)を回路基板にハンダ付けしていた。複雑な配線が必要になる場合もある、そうした回路基板を大量生産するためにプリント配線技術が利用された。 プリント配線技術により信頼性が向上するとともに、大量生産が可能になった | ||||
<プリント配線技術> 印刷技術を応用しているために「プリント」配線技術と呼ばれる。初期の場合、絶縁基板に銅箔を重ね、さらにその上に感光性物質(光が当たるとその性質が変わる物質)を塗る。これを基板回路の配線パターンを記したマスクで覆ってから露光する。そうすると光の当たった部分だけが感光性物質が硬化する。その後で薬品処理して、光が当たらなかった部分のマスクを洗い流すと基板の上に重ねた銅が露出する。その露出した部分の銅を酸で溶かして流すと、光が当たった部分だけに銅が残る。こうして銅による配線が完成する。 | ||||
(2) IC(トランジスタの集積回路)の発明(1958) | ||||
TIのギルビー特許 vs フェアチャイルド・セミコンダクター社のプレーナー特許 | ||||
フェアチャイルド・セミコンダクター社によるIC(集積回路)の発明---プレーナー特許
その当時、トランジスタの製造に関して次の二つのことが大きな問題であった。
前者の問題を解決したのが、ジーン・ホーニである。ホーニは、「トランジスタの表面を酸化物で覆うことでトランジスタ内部を様々な汚染物質から保護できるし、性能も全く変わらない」ということを発見した。「プレーナー・トランジスタ」の基本構造はこのようにホーニによって発見されたのであった。(ホーニは、ショックレー半導体研究所をノイスやグローブと一緒に辞めた「8人の裏切り者」の一人である。) このホーニのアイデアはすぐに製造工程に取り入れ、それまでよりもずっと信頼性の高いトランジスタ製品の量産が可能になった。 | ||||
後者の問題を解決したのが、ノイスである。ノイスはホーニのこうした発明をさらに発展させ、プリント配線技術を利用してシリコンウエハー上の複数のトランジスタや抵抗器の接続を可能にした。このように写真製版技術での「印刷」により一つのウエハー上に複数のトランジスタや抵抗器を一緒にのせた集積回路を形成することが可能になったことにより、ICの大量生産ができるようになった。 これに対して、キルビーのICはトランジスタなどの部品を手作業で一つ一つ細い金属線でハンダ付けで接続していたので大量生産ができなかった。 | ||||
(3) ICの商業的成功により、フェアチャイルド・セミコンダクター社は世界最大の半導体メーカーとなった | ||||
フェアチャイルド・セミコンダクター社によるトランジスタ事業は「需要に生産が追いつかない」ほどすぐに成功したが、IC(集積回路)の方は成功まで時間がかかった。 フェアチャイルド・セミコンダクター社は、TI社に先立って1961年にはICを商品化したがなかなか売れなかった。そのため ICの価格をトランジスタ、抵抗、コンデンサーなどICを構成する各部品の価格よりも下げた1個1ドル(当時の原価の数分の一)という赤字販売をおこなって、販路を拡張することでようやく売れ始めた。1963年頃からIC事業で十分な利益が出るようになった。TIやモトローラの追随をかわし、フェアチャイルド・セミコンダクター社がその後もほぼ一貫してトップを維持し、1960年代半ばまでにフェアチャイルド・セミコンダクター社が世界最大の半導体メーカーとなった。
[出典]「インテル社長ゴードン・ムーア氏(13)IC事業軌道に――1個1ドル(私の履歴書)」『日本経済新聞』1995/02/14朝刊 | ||||
(4)フェアチャイルド・セミコンダクター社の親会社との間での経営方針や人事をめぐる対立 | ||||
フェアチルドレンとしてのインテル社 シャーマン・フェアチャイルドは、資金援助の際の「設立二年後に全株を買い取る権利を持つ」との契約条項に基づき、ノイスやムーアら創業メンバーの8人の株を買い取った。(創業者たちの500ドルが25万ドルになった。)こうしてフェアチャイルド・セミコンダクターはフェアチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメントの100%子会社となった。 しばらくして、ノイスやムーアらフェアチャイルド・セミコンダクター社の経営幹部と親会社との間で経営方針 --- 親会社との空間的距離に起因するコミュニケーション・ギャップ、研究開発と生産までの時間的ギャップの拡大、東海岸的経営スタイル vs シリコンバレー(西海岸)的経営スタイルの対立(西海岸の企業では従業員のインセンティブのためにストック・オプションを与えることが多かったが、東海岸の企業ではそうしたことはなかった) --- や人事をめぐる対立が起きた。その結果として、ノイスとムーア(退職時の役職はフェアチャイルド社研究開発担当取締役)は、フェアチャイルド・セミコンダクター社を退社し、インテルを創立することになった。 ノイスやムーアと同じように、 フェアチャイルド・セミコンダクター社から独立して何十もの企業がつくられた。こうした企業はフェチルドレンと呼ばれている。 | ||||
(1) 世界最初のDRAM製品「1103」出荷(1970) | ||||
DRAMの量産開始は1972年.・・DRAMが大ヒットし、インテルの経営が軌道に乗る インテル社の設立にあたり、ムーアとノイスは、半導体メモリー(記憶素子)の事業分野に集中していくことにした。その当時は、汎用コンピュータの記憶部品の主流は磁気コアメモリであった。IBMが試験的に生産していた半導体メモリーのコストは、磁気コアメモリ(1ビットあたり約1セント)の200〜300百倍であり、まだ実用化のメドは立っていなかった。 そこでインテル社は、生産コストを引き下げるための新しい回路構造の研究に没頭し、1969年8月に64ビットのバイポーラ・メモリーを初めての製品として出荷を開始し(これはIBMに次ぐ世界で二番目の半導体メモリーであった)、同9月には記憶容量が256ビットであるSRAM(スタティック・ラム)を発売した。どちらも補助記憶部品として成功はしたが、磁気コアメモリにとって代わるほどのものとはならなかった。 そこでインテルはもっと高密度のメモリーを開発することとし、1970年には世界最初のDRAM製品「1103」(記憶容量1KB=1024バイト)の出荷を始めた。価格は十ドルで磁気コアメモリに十分対抗できた。最初はコンピューターメーカーにその製品が理解されなかったが、一年もたつと大手メーカーから次々と大量注文が入ってきた。[注 磁気コアメモリがどのようなものであるかについては、相田洋(1992)『NHK 電子立国 日本の自叙伝 完結編』日本放送出版協会,pp.67-74が非常にわかりやすい。] 1972年からDRAMの量産を始めた。DRAMは大ヒット製品となり、売上高は57万ドル(1969)→424万ドル(1970)→943万ドル(1971)→2342万ドル(1972)→6617万ドル(1973)→1億3445万ドル(1974)というように急激な成長を遂げた。 | ||||
(2) 世界初のCPU4004の開発(1971) | ||||
1969年に、日本の電卓会社「日本計算機販売」(現在はビジコンへと社名を変更)から注文のあった電卓用LSIの開発の中で、マイクロプロセッサーの発明がおこなわれた。当初はその歴史的意味は十分には理解されてはいなかったが、ビジネス用途のパソコンの事業化を図ったIBMがIBM-PCのCPUとしてインテル社製CPUを採用したことを契機にインテル製CPUがパソコンの事実上の標準となり、インテル社のさらなる飛躍が可能になった。 | ||||
(3) IBM-PC用のCPUとしてのインテル製CPUの採用(1981) | ||||
1970年代末頃にはモトローラがCPU市場でめざましくシェアを伸ばし、インテルに迫っていた。 危機感を深めたインテル社は、シェアを守るために1979年に「オペレーション・クラッシュ(破壊工作)」というすさまじい名前の営業活動を開始し、モトローラと競合しそうな顧客を徹底的に回った。その中にはDRAM納入ですでに取引実績のあったIBMも含まれていた。 インテルがそのようにIBMに対するCPUの売り込みに回ったちょうどその時、IBMはビジネス用途のパソコンの事業化を検討していた。IBMはCPUの自社生産やモトローラからの購入などいろいろと検討した末に、結局インテルが受注に成功した。 ただこの時点では将来的な成功の見込みはまったくなく、IBMからの受注が決まった時も「また顧客が増えてよかった」という程度の認識しかムーアにはなかった。(ゴードン・ムーア 述、玉置直司取材・構成『インテルとともに : ゴードン・ムーア私の半導体人生』日本経済新聞社、1995年、pp.96-98) |