- x86アーキテクチャにおける64KBセグメン
ト---8ビットCPU8080と16ビットCPU8086との連続性
- ケアリー(Frank
T. Cary)
CEO 1973.1〜1981.1
会長(chairman of the board)
1973.1〜1983.2
社長(President) 1973.6〜1974
Idaho生まれ
UCLA卒業(理学士)、スタンフォード大学大学院(経営学修士号)
1948年にIBM入社
1967年 a senior vice president(翌年からthe board of directorsに参加)
1971年3月 executive vice presidentに選出される(the executive committeeのメンバーになる)。
1971年6月 IBM社長(President)
1973年1月に会長兼CEO兼社長となる。
1974年、社長職を オペル(John R. Opel )に譲る。
ケアリーの略歴に関しては下記が参考になる。
Portia Isaacson,"15th
Anniversary -- Research Perspective: Remembering how it all came about -- A Longtime
Analyst Reflects On The Origins Of The Channel ," 06-01-1997; Computer Reseller
News
I recall 1982. It was the year that the big guns remade the personal-
computer market. The personal-computer market was growing wildly even before IBM's
entry. In 1979, there were 180,000 personal computers sold in the United States-not
counting low-end home computers. Market leaders were Apple with the Apple II,
Radio Shack with its TRS-80, and a legion of smaller companies like Altos offering
computers based on the most important standards of the time:the Z80 microprocessor,
the CP/M operating system and Microsoft Basic. Virtually all personal computers
were sold through computer stores, which sprouted up all over the country- from
the first store in 1975 to 100 stores in 1976 to 800 by the end of 1979.
- MITS社のAltairの売り上げ
「1975年末までに、アルテアの売り上げは100万ドルに達していた。」(Daniel Ichbiah,Susan L. Knepper[椋田直子訳](1992)『マイクロソフト---ソフトウェア帝国誕生の奇跡』アスキー,p.66)
「MITSは破屋寸前だったため、ロバーツはアルテアにすべてを賭けていた。アルバカーキーの自分の耶引銀行に、このマシンには数百台の市場があると説得して、マシン開発用に6万5千ドルの借入金を手にした。後でわかったことだが、MITSには『ポピュラー・エレクトロニクス』誌のアルテア特集号が売店の店頭に並んでから数日のうちに、数百台の注文が舞い込んだのである。2,3週間内には4千台を越える注文が殺到した。ほとんど一夜にして、この会社の現金残高は約30方ドルの赤字から約250万ドルの黒字に変わった。パソコンを持てるというチャンスは、それほど魅力にあふれていた、数千人もの人々が、次々と、一度も名前も聞いたことのない会社宛に小切手や現金為替を送ってきた。」ジェームズ・ウォレス、ジム・エリクソン(1992)『ビル・ゲイツ』翔泳吐.p.111
ただし絶対的大きさで言えば、大型コンピュータ市場の1975年度の売上額は数十億ドルにも達するものであったから、マイコン・キット市場はそれ自体相対的にはまだ小さなものであった。
例えば1975年のIBM社の総収入は144億ドルであり、純益は20億ドル("IBM gross income increases to $14.43
billion and net earnings grow to $1.99 billion. IBM has 288,647 employees and
586,470 stockholders."http://www-1.ibm.com/ibm/history/documents/pdf/1970-1984.pdf,p.7)という巨大な規模であった。また、日本における日本電気(NEC)一社のコンピュータの売り上げでさえも、1975年度に1000億円台にのぼるものであった。(『日経産業新聞』1976年5月19日)
なお、周辺機器やMicrosoft社のBASICを販売していたMITS社の売り上げは、1976年には約1,300万ドルにまでなっていた。しかしながらその売り上げを達成した主要因はAltairではなく、Microsoft社のBASICの販売であった。
MITS社の製品の品質は低く、RAMの拡張カードがうまく動作しなかった、と言われている。「MITS社が売り出したメモリボードが欲しいという者は誰もいなかった。だが、誰しもBASICを欲しがった。そこで、MITSは、すぐに、BASICに500ドルの価格をつけて販売することを決めた。アルテア本体より100ドルも高い値段である。ところが、MITSはたったの150ドルで、BASIC付きのメモリボードを売り出したのである。」(ジェームズ・ウォレス、ジム・エリクソン(1992)『ビル・ゲイツ』翔泳吐.p.133)このように不評なメモリ・ボードの販売のためにBASICが使われるほど、BASICは魅力的な商品であった。「MITSは1976年には約1,300万ドルの売り上げをあげていたが、アルテアは超新星と化し、消滅寸前の星となっていた。[Microsoft社のBASICに関する]ライセンス契約がなければ、MITSはほとんど会社としては無価値だった。アルテアではなくて、BASICがMITSの収入源となっていたのだ。」(ジェームズ・ウォレス、ジム・エリクソン(1992)『ビル・ゲイツ』翔泳吐.p.143)
- 2002年4月にはパソコンの累計出荷台数が10億台を突破
- なぜIBMはIBM-PCに8088を選択したのか?
- 元麻布春男「PCのエンジン「プロセッサ」の歴史(1)〜i8088からIntel386までの道のり 1. IBM PCシリーズに採用された86系16bitプロセッサたち
」
『連載 IT管理者のためのPCエンサイクロペディア −基礎から学ぶPCアーキテクチャ入門− 』第7回、2002/08/17
「当時、自社技術に高い誇りを持っていたIBMが、外部企業からコンピュータの主要コンポーネントであるマイクロプロセッサを調達したこと、しかもそれがアーキテクチャとして必ずしも高い評価を受けていなかったi8086の、さらに廉価版ともいえるi8088であったことは、かなり意外なことではなかったかと記憶する。
この当時の16bitマイクロプロセッサは、大別するとIntelの86系とモトローラの68000系という2系統に分類することができた。このうち、メモリ空間が64Kbytes単位のセグメントに分割されるIntelの86系のアーキテクチャは、必ずしも高い評価を受けていなかった。それに対して、モトローラの68000系プロセッサの方が、コンピュータらしい「美しい」アーキテクチャを持つということで、高い評価を受けていた。口の悪い向きは、86系のルーツが電卓用に開発された4004であることを揶揄する意味で、86系プロセッサを「電卓上がりのプロセッサ」などといったものである。
にもかかわらず、IBMがあえてi8088を選んだ理由として、さまざまな事柄が挙げられている。例えば、当時普及していた8bitプロセッサ「8080」と対応OSであるCP/M上には、表計算ソフトウェアのVisiCalcやワードプロセッサのWordStarなどといったアプリケーション資産が蓄積されつつあり、86系プロセッサならこれらの継承が容易であったこと。また86系プロセッサには、i8259やi8237、i8255*1といった安価で枯れた周辺チップが存在しており、これらを使用して開発期間の短縮などが可能だったことも、理由の1つだろう。しかし、IBM自身が正式に理由を述べたことはなく、開発責任者の事故死とあいまって、ハッキリとしたことは分からない。ただ、i8086ではなくi8088だったことからしても、価格をかなり意識していたことだけは間違いない。外部データ・バス幅の狭いi8088の方が、マザーボード上のデバイスの総数や回路基板のバス配線などが少なくて済み、製造コストを下げられるからだ。また、このようにi8088の採用で回路規模を抑えたことは、開発期間の短縮にも貢献したと思われる。(原注*1 i8259は割り込みコントローラ、i8237はDMAコントローラ、i8255はパラレル・インターフェイスのコントローラである。)」
上記の互換性の点については、若干異なる記述のWebページもある。たとえば、小松「8086」『半導体コレクション展示会場』
http://www.st.rim.or.jp/~nkomatsu/intel16over/i8086.htmlでは、「8080Aの直接の後継は8085ですが、その8085はZ80との競争で不利な地位に置かれていました。それを打開すべく、Intelは8
bit CPUと比べられる程度の導入コストの16 bit CPUを開発、8086/8088として発表しました。特に8088をミニマムモードで使用すると、クロックジェネレータが別に必要となることを除けば8085とほぼ同じ外部回路で動かすことができました。また、8080Aや8085Aのアセンブラソースコードを8086のアセンブラソースコードに変換するソースコードトランスレータが提供され、特にプログラム64
KByte、データ64 KByte以下の応用には、8085から簡単に移行できると強調しています。」と書かれている。
- チャールズ・H.ファーガソン,チャールズ・R.モリス[藪暁彦訳](1993)『コンピューター・ウォーズ、21世紀の覇者
: ポストIBMを制するのは誰か! 』同文書院インターナショナル,pp.40-41
「ポカラトンの技術スタッフは、実は8088を軽蔑していたゲイツ同様、モトローラのチップが気に入っていたのである。しかし、IBM
PC設計チームはこれまでずっと、8088以前のチップ、8085使っていた。8085は5100シリーズのある機種に使われたチップだったから、彼らはインテルのアーキテクチャーをよく理解していたのだ。利用できるソフトウェアが多かった点でも、インテルのチップは有利だった。IBM
PCチームもよくわかっていたように、ソフトウェアの多様さはマシンの大きなセールスポイントになる。・・・多くの制約があるにもかかわらず、8088はポカラトンのチームがIBM
PC用に設計していた周辺チップにみごと適合したのである。」同上書,p.40
「インテルの主要なビジネスは、当時、メモリーチップの販売だった。ところが、IBMは8088チップ一個につき九ドルしか払わなかったのだ。あるいはムーアが言うように、「IBM
PCの基板に使うハンダと同じくらい」の金額しか払っていない。いずれにせよ、IBM、インテルの両社にとって、これは大した取引きではなかったのである。 」 同上書,p.41
- ロバート・X・クリンジリー(1993)『コンピュータ帝国の興亡』上巻,アスキー出版局,p.208-210
「どの16ビットプロセッサを選ぶかは、簡単だった。この頃、インテル、モトローラ、ナショナル・セミコンダクターの三社だけが16ビットプロセッサを発売していた。インテルは8086と8088、モトローラは68000、ナショナルは16032だ。ナショナルのプロセッサはエレガントで強力、モトローラのものは強力でソフトウエアの作成が容易、インテルの8086はきわめて強力だがメモリが使いづらく、8088は8086からパワーを取ったようなものだった。
IBMは当然、技術的に見て一番魅力のない8088を選んだ。今回は製造やマーケティングが優先され、技術的な配慮は二の次だった。この計画は、カスタムメイドの部品をいっさい使わずに半導体メーカーから買ってきたものだけでコンピュータを作ろうというものだ。コンピュータを構成するのに必要な周辺チップまですべてそろっている一六ビットプロセッサは、唯一8088だけだったのだ。モトローラとナショナルはまだ16ビット用周辺チップを開発中だったし、インテルの場合も8086に関しては同じだった。8088は8ビットのバスを採用している。つまり、データの受け渡しは8ビット単位で行って、その処理を16ビット単位で行う。8088は、8ビットプロセッサのボディに16ビットプロセッサを入れたようなものなのだ。8088はこの八ビットのバスが原因でほかのプロセッサに比べて非力だったが、反対にそのおかげでインテルの8ビットプロセッサ8080用に作られた周辺チップを利用できる強味もあった。8088はカスタムメイドの周辺チップを開発しなくてすむ、唯一の16ビットプロセッサだったのだ。IBMの要求に合うプロセッサはこれしかない。
旧式の周辺チップを使えることもあって、8088はほかのプロセッサより安価だった。そしてインテルは意図的に、8086より安い価格を設定していたのである。だがIBMが採用を決定するうえで、価格は重要なポイントではなかった。
8088がほかのプロセッサほど強力でなかったことが、IBMから見ると実は利点だったのだ。あまり高性能すぎると、顧客の関心は多くのアプリケーションの処理速度はパーソナルコンピュータよりやや速いものの、はるかに値段が高いIBMの中間帯システムからエイコーンに移ってしまう。チェスプロジェクトはIBMのほかの部門から情報を得て進行していたわけではないが、ロウは好んでトラブルを招きよせるほど愚かではなかった。そこでまだ開発中だったIBM
PCは、わざと処理速度を落とすように作られたのである。IBMのあらゆる端末をエミュレートさせる機能をエイコーンに付加するのも簡単だった。この機能があれば、IBMのミニコンピュータやメインフレームと通信できる。だがそうなると、IBMの端末ビジネスは息の根を止められることになる。そこで、結局はこの機能も除外されたのだった。」
- なぜIBMはIBM-PCに16ビットCPUを選択したのか?
- ロバート・X・クリンジリー(1993)『コンピュータ帝国の興亡』上巻,アスキー出版局,p.208
「ゲイツによれば、IBM側が説明してくれたコンピュータのデザインは、すでに市場に数多く出回っているものと大差のないCP/Mが走る8ビットのコンピュータだった。そこでゲイツはIBMの一団に、発売されたばかりの一六ビットプロセッサを使うよう強く薦めたのだ。16ビットプロセッサを使えば、IBM
PCは競合製品より強力な印象を与えることができ、はるかに多くのメモリを載せることができる。アップルIIに搭載できるメモリはこの時点で、四万八〇〇〇文字、メモリの単位に言い換えれば48Kバイトが限界だった。そして大部分のCP/Mマシンは、その限界である64Kバイトぎりぎりまで使っている。これが一六ビットマシンなら競合機種よりはるかに大きなメモリ空間を使え、市場でも間違いなく有利な立場に立てる。しかも将来、システムの拡張も容易にできる。
この主張には説得力があったが、IBMは16ビット用どころか8ビット用のオペレーティングシステムすら手に入れていない。そこでゲイツは、オペレーティングシステムに関しても助力できるだろうと言ったのだった。」
- 日本がシリコン・トランジスタの開発に遅れた理由
- 渡辺誠(1985)『超LSIとその企業戦略』時事通信,pp.43-44
「米国の半導体産業が、シリコンを中心に据えて立ち上がるにあたって、(アメリカの)政府調達が果たした役割は非常に大きなものがあったとみられる。この時期における政府援助(サポート)についてみると、例えば1958年から74年にかけて合計9億3千万ドルの政府援助があったが、同じ期間の民間の研究開発費は12億ドルであったという。これはシリコントランジスタからIC初期にかかる時期である。・・・米国でシリコン、トランジスタが軍用に注目されたのは、高温においても安定した動作をすること、大出力が得られること、機械的にも丈夫なこと等々であった。過酷な環境条件の下で使用するにはゲルマニウム・トランジスタはあまりにもひ弱であった。・・・(日本でシリコン・トランジスタへの対応が遅れた理由の一つには)シリコン・トランジスタの国内需要の立ち上がりが遅く、一方ゲルマニウム・トランジスタの需要は引き続いて旺盛なことであった。トランジスタ・ラジオを作っている限り、高温に耐える、あるいは大出力を扱えるトランジスタは必要でない。・・・ 実際統計の上で見ると、ゲルマニウム・トランジスタの生産は昭和50年ごろまでそれほど減少せず、シリコン・トランジスタはゲルマニウムによる生産の上に積み上げられた形で始まっている。」