- 1970年代中頃におけるパソコン市場
(2)1975年における大型コンピュータ市場と比べたパソコン市場の相対的規模
MITS社のAltairが1年間に100万ドルの売り上げを記録するなどかなり売れたとは言っても、1970年代中頃のパソコン市場はIBMのような大きな会社から見れば、かなりマイナーな市場でしかなかった。IBM社の1975年の総収入は約144億ドル、純益でさえ約20億ドル["IBM
gross income increases to $14.43 billion and net earnings grow to $1.99
billion. IBM has 288,647 employees and 586,470 stockholders."http://www-1.ibm.com/ibm/history/documents/pdf/1970-1984.pdf,p.7]という巨大な規模であったから、IBM社にとって1975年当時のパソコン市場はまったく小さな市場にしか過ぎなかった。
後知恵的に振り返ってみると、IBM社のパソコン市場への参入はかなり遅れたように見える。そうした相対的な遅れの原因としては様々な要因が関係していると思われるが、その一つには大型コンピュータ市場での圧倒的成功という自社の強みがあったと考えられる。
1970年代におけるIBMの大型コンピュータ市場での設置金額ベースでのシェアは、1970年の69.3%から次第にシェアを減らし1975年に最低値を記録したが、それでも58.3%ものシェアを誇っていた。70年代後半はまた再びシェアを増大させている。
なお、設置台数ベースではIBMの世界シェアは1970年に64.4%で、1978年には67.5%となっている。 [坂本和一(1992.11)『コンピュータ産業
: ガリヴァ支配の終焉』有斐閣,pp.114-115]
(3)1970年代中頃におけるパソコン市場の将来的成長性
1970年代中頃の時点ではパソコン市場が現在のように大きくなるとは、CPU開発メーカーのインテル社も予測してはいなかった。
例えば ムーアは、1970年代中頃を回想して「インテルは、開発したMPUの普及にも力を入れた。電卓用からエレベーターや信号の制御用として需要は拡大していたが、さらに有望な用途を探していた。七〇年代半ばだったか、今で言うパソコン向けとして使えるのではというアイデアを、ある社員が持ってきたこともあった。「家庭用コンピューターを作れば主婦が例えば調理法を記憶させておける」という内容だった。私はどうしても自分の妻がコンピューターを見ながら料理する光景が想像できず、却下になった。このころ、すでに簡単なホームコンピューターが出回り始めていたが、パソコン時代の到来など思いも寄らなかった。日々の営業や開発業務に追われ、パソコンのことなど考えている余裕がなかったのも確かだ。」(『日本経済新聞』1995年2月19日朝刊)と述べている。こうしたムーアの認識は1980年代はじめでもさほど変わってはおらず、IBMからの受注が決まった時も「また顧客が増えてよかった」という程度の認識しかなかったと述べている。(『日本経済新聞』1995年2月19日朝刊、ティム・ジャクソン(Tim
Jackson,渡辺了介・弓削徹訳,1997)『インサイド・インテル』上巻,翔泳社,p.325-326に、この点に関するより詳しい記述がある。)
- 1970年代後半におけるパソコン市場の急激な成長
マニアを中心とした「商業」的成功とは言え、Altairの登場を契機とした1970年代後半以降のPCブームは、それ以前のマイコンキット・ブームとは質を異にする点があった。それは、それまでのPCブームが<ハード中心のブーム>に過ぎなかったのに対して、今度のPCブームはCPUの性能向上と価格低下を背景として<ハードとソフトの協調によるブーム>へと性格を変えていたということである。こうした性格変化を背景として、アメリカのPC市場は大きな飛躍を遂げることになった。
しかもVisiCalcマシンとしてのAppleIIへのビジネス・マンの人気に見られるように、パソコンは単なるマニアの趣味のための機械からビジネス用へとその性格を変えつつあった。
(1)アップル社のAppleII、 Commodore社のPET、タンディ社のTRS-80の成功
米国における8ビットCPUパソコンの販売台数が次第に増加・・・4万8千台(1977)→ 18万台(1979)→29万台(1980)→70万台(1981)
その後1977年になると、アップル社のAppleII(1977.4)、 Commodore社のPET(1977.4)、タンディ社のTRS-80
Model I(1977.8)が発売され、パソコン市場はさらに拡大し、1977年には1年間に4万8000台が出荷されたと推定されている
IBM PCの開発チームのリーダーであったドン・エストリッジも、自宅にAppleIIを持ち、遊び道具として使っていた、と言われている。(ジェイウムズ・クボスキー、テッド・レオシンス著、近藤純夫訳 (1989)『ブルーマジックー --- IBMニューマシン開発チームの奇跡』経済界,pp.69-70)
Apple社は1978年会計年度(1977年10月〜1978年9月)に7600台、1979年会計年度(1978年10月〜1979年9月)に35,100台、1980年会計年度(1979年10月〜1980年9月)に78,100台、1981年会計年度(1980年10月〜1981年9月)に18万台近くを販売した。その結果、1981年8月にはApple
IIの累計販売台数が30万台を超えるまでになっている。なおアップル社はその後もしばらくは好調を維持し、1983年3月には通算100万台目のPCを出荷するほどの成功を収めた。(ただし、AppleIIIは全部でたった6万5千台しか売れなかった。)
AppleIIは標準ではキーボードとカセット・インターフェースしかなかったが、PETおよびTRS−80は、キーボード、モニター、カセット・レコーダー付きで、しかも、AppleIIの半額近くで販売されていた。そうしたこともあり、TRS−80は、発売前には年間3,000台の売上げを見込んでいただけであったにも関わらず、発売後最初の1ヶ月間で1万台を売り、1981年1月に製造中止されるまでには20万台以上が売れた。
またパーソナル・コンピュータの販売店は1975年には1店しかなかったのに、1976年には100店に、1979年末には800店にまで増加した。そうした販売店数の増大と軌を一にして、パソコン市場は全米で、1979年には18万台、1980年には29万台というように順調に拡大した。1980年には全世界でのパソコンの売上額が14億ドルになった、と推定されている。
アップル社の年間売上高も、会社発足時の1977年の88万ドルから順調に増大し、1999年には4,800万ドルに、そして1980年には約1.4億ドルにまで急成長した。(なおアップル社は、1982年にはパーソナルコンピューターのメーカーとして年間売上高10億ドルを初めて超えている。)
(2)単なるマニア向け商品から、ビジネスマン向け商品への転換を開始しはじめた米PC市場---1981年の米国パソコン市場の約8割がビジネス用途
1981年に米国で出荷されたパソコンの用途に関しては、家庭用と教育用がともに約10%で、残りの約80%がビジネス用であると推定されている(『日経産業新聞』1982年2月20日)ことに端的に示されているように、MITS社のAltairおよびその前後のマニアを対象とした「パソコン・キットの時代」は終わりを告げ、1981年には多くの人々にビジネス用の商品としてパソコンが認知されるようになっていた。そうした背景には下記に挙げたように、パソコン用のフロッピー・ディスク、ワープロや表計算などの用途向けソフトが普及を開始したということがある。
フロッピー・ディスクのサポート、および、表計算ソフトVisiCalcのヒット
AppleIIの成功の主要な二つの要因・・・FDDおよびVisiCalc
Apple社の創設者の一人であるSteve Wozniak は、雑誌『Byte』における1984年のインタビュー(http://apple2history.org/museum/articles/byte8501/byte8501.html)の中で、AppleIIの成功の主要な二つの要因として下記の2点を挙げている。
a.フロッピー・ディスクのサポート
発売開始当初はカセットテープを利用するしかなかったが、1978年7月よりフロッピー・ディスクが$595[発売前に予約していた場合は$495]で利用可能となった]で発売された。フロッピー・ディスクのサポートを主張したのは、当時アップル社の会長であったマイク・マークラ(Mike
Markula)であった。マークラは、インテル社で主に財務関係の仕事をしていた関係から、フロッピー・ディスク・ドライブがあればAppleIIで会計処理をおこない、その結果の財務データをフロッピーに保存できるという利点があれば、AppleIIが中小企業のオーナーに売れると考えたのである。(ロバート・X・クリンジリー(1993)『コンピュータ帝国の興亡』上巻,アスキー出版局,p.106)
フロッピーディスクドライブを内蔵したパソコンは、すでに1975年にIMS Associates, IncからIMSAI8080として発売されている。http://wwwcsif.cs.ucdavis.edu/~csclub/museum/items/imsai_8080.htmlに掲載されている写真でわかるように、Altair8800の互換機であるIMSAI8080(1975)は2基の8インチ・フロッピー・ディスク・ドライブをすでに内蔵していた。
b.VisiCalcという表計算ソフトが発売後最初の1年間はAppleII上でしか動かなかったこと
AppleIIの競合機種であるタンディ社のTRS-80や Commodore社の PETは、VisiCalcを動かすの十分なメモリを装備してはいなかった。当時、$150程度の価格のVisiCalcというソフトを使いたいがために、その10倍以上の価格のAppleIIを買っていったビジネス・マンが何千人もいたと言われている。そのためAppleIIは、VisiCalcマシンと呼ばれることもあったほどである。スミソニアン博物館が製作した『コンピュータの歴史』という番組の中でWozniakが「このソフトウェア(VisiCalcのこと)の登場が、アップルIIの普及を加速させました。表計算ソフトの登場は,私たちが開発したアップルIIに取って,最大の出来事だったと思います。」『NHKスペシャル 新・電子立国 第3巻』p.14
またWozniakは同じインタビューの中で、「VisiCalc以後、AppleIIの売り上げの90%はスモール・ビジネス向けのものであると考えられている。残り10%だけが、Apple社が当初は数十億ドルの市場に成長するであろうと考えていたhome
hobby 市場向けのものであった。」(After VisiCalc, it was perceived that 90 percent
of all Apple II's sold were going to small businesses. Only 10 percent
were going into this home hobby market that we originally thought was
going to grow to be billions. ) と語っている。
VisiCalcの人気により、AppleIIが売れたことから、「TRS-80や発売が予想されていたIBM PCなど他のパソコンへの移植防止のために、100万ドル相当のアップル株の譲渡でVisiCalcを買い取る」という話が進行したが、当時のアップル社会長のマークラが高すぎるとして反対したことにより、買い取りは実現しなかった(ロバート・X・クリンジリー(1993)『コンピュータ帝国の興亡』上巻,アスキー出版局p.119)。そうした結果として、VisiCalcはIBM
PCなど他のパソコンに移植されることとなった。
IBM PCの普及にも表計算ソフトが関わっている。IBM PC向けには、VisiCalc以外にも、マイクロソフト社が1982年夏にMultiplanを発売しているが、特にヒットしたのが1982年11月にロータス社から発売された表計算ソフト「Lotus
1-2-3」であった。Multiplanは、VisiCalc同様、IBM PC以外の様々なパソコン上でも動くことを前提に開発されていたが、Lotus
1-2-3は、IBM PC専用のソフトウェア、すなわち、IBM PCのハードウェア構成に合わせて作り込まれたソフトであった。そのため、多くのメモリを必要とはしたものの、動作が圧倒的に高速であった。その結果として、VisiCalcを使いたいがためにAppleIIを買う人が出たのと同様に、1983年末頃にはLotus
1-2-3を使いたいがためにIBM-PCを買うユーザーが続出したと言われるほど、大ヒットした。
(3)1970年代後半期における日本のパソコン市場
マイコンキット時代から8ビットCPUパソコンの時代への転換の開始
日本はアメリカには多少遅れたが、1976年頃からマイコンキット時代に突入していた。そしてマイコンキットブームの後に、1978年末からは日本でもパソコンブームが始まりを告げつつあった。すなわち、SHARPのMZ-80(1978.12)やNECのPC8001(1979.9、2年間で約12万台を販売)などを契機として、日本でもマイコンキット時代からパソコンの時代への転換が開始されたのである。ただし日本ではアメリカと異なり、パソコンの販売はブランド力のある大手家電メーカーを中心としたものとなった。
日本のパソコン市場(基本構成で20万円から200万円程度のパソコン)は、アメリカの数分の一の規模であったが、1979年度に3万台、1980年度に10万台と順調に成長を遂げつつあった。
日本のパソコン市場のシェアは、1979年度は1位 シャープ34.5%、2位 NEC27.5%、3位 日立製作所16.1%、4位 ソード電算機システム8.0%、5位
アップル 7.5%、その他6.3%であったのが、1980年度はNECのPC8001のヒットなどによる市場拡大とともに若干の順位変動があり、1位
NEC 41.1%、2位 シャープ 28.8%、3位 日立製作所12.3%、4位 ソード電算機システム 5.7%、5位 沖電気工業2.4%、その他9.7%となっている(北原正夫、青木良三(1982)『コンピュータ業界』教育社,p.128)。
(4)1981年当時のパソコン市場
1981年の米国パソコン市場・・・出荷台数70万台、売り上げ金額10億ドル
Commodore社がPETの後継機種として1981年1月に発表したThe Commodore VIC-20は、300ドルでカラーグラフィックスが取り扱えるパソコンとして人気を博し、最盛時には一日に9,000台の生産を記録するなどヒットし、最終的に100万台の販売台数を記録した最初のパソコンとなった(1982年にはその販売額が3億5百万ドルに達した)。<br>
PWMH(ペイン・ウェーバー・ミッチェル・ハッチンス)インタナショナルのバーバラ・S・イスガー(米国のパーソナルコンピューター事情に精通した米国証券アナリスト)は、日本経済新聞社のインタビューに答えた記事(『日経産業新聞』1982年2月20日)の中で、アメリカでは1981年に1980年より3倍も多い70万台のパソコンが出荷され、売り上げが10億ドル以上に達したと推定している。また市場シェアは、タンディ(Tandy)が約35%、アップル(Apple)が30%強、コモドール(Commodore)が20%、アタリ(Atari)が5%前後、NECとシャープの両社合計で約5%と推定している。(IBMは1981年10月に発売を開始し、パソコン市場に参入したばかりであったので、まだそれほどのシェアを獲得してはいない。)
1981年における世界のパソコン市場の推定シェア --- Appleがトップ
1981年における世界のパソコン市場の推定シェアは、 下表の通りであり、アップ社がトップで23%のシェアであった。
1981年の世界のパソコン市場シェア(推定値) |
|
|
会社名
|
シェア |
Apple
|
23%
|
Tandy
|
16%
|
Commodore
|
10%
|
NEC
|
7%
|
Hewlett-
Packard
|
6%
|
その他
|
38%
|
|
|
[注]上記の数値データは、COMPUTERWORLD,"Stats and Numbers"(2001.8.10)http://www.computerworld.com/news/2001/story/0,11280,62972,00.html
による。(ただしその原資料は、Gartner Dataquestによるものである。)
- IBMのパソコン開発前史 --- IBM-PC以前の「パソコン」(IBM 5100シリ−ズほか)
- コンピュータ市場の基本構造 ---- メインフレーム、ミニコン、パソコン
メインフレーム市場ではIBM360シリーズ(1964年4月)などで大成功を収めたIBMであったが、ミニコン市場ではあまりうまくいっていなかった。ミニコン市場はDECが1960年代中頃に開拓した市場であるが、IBMも1969年には参入を開始した。しかし参入から10年を経過した1980年時点でも市場シェアは4%程度であった。
DECが1965年4月に1万8千ドルで発売したPDP−8を契機として、ミニコン市場が確立した(ちなみにマイクロソフト社を後に創立することになるビル・ゲイツとポール・アレンがAltair8800用にBASIC言語を移植する際に用いていたのもDEC社のミニコンPDP-10であった)。DECはミニコン市場の拡大とともに売り上げを伸ばし、1977年6月期決算で初めて10億ドル台を突破し、10億5900万ドルになった。そして4年後の1981年6月期決算ではその約3倍の31億9800万ドルの売り上げでIBMに次ぐ第2位の売上げのコンピュータメーカーとなっている。(なおIBMは1980年の12月期決算においてDECの約8倍の262億1300万ドルの売上げを記録している。)
- パソコン市場参入の必要性に関するIBM社の認識
上記のようにミニコン市場への参入が遅れたこともあり、IBMはミニコン市場で伸び悩んでいた。パソコン市場でもミニコン市場と同じことを繰り返す恐れに対してIBMは何らかの対策を打たなければいけないことは認識されていた。パソコン市場の規模や将来的発展に関して疑問の声が一部にあったにせよ、1970年代後半期におけるパソコン市場の飛躍的成長と性格変化を前にして、パソコン市場へ参入する必要があることはIBM社内においても強く認識されていた。
例えば、1970年代半ば頃、IBMの経営幹部の多くはパソコンに消極的であったが、その当時のIBM会長フランク・ケアリーは「メインフレームの売上げは、必ず横ばいになる。そのときに例年どおり年15パーセント成長を維持するには、パーソナルコンピューター市場に移行するしか方法はない」(チャールズ・H.ファーガソン,チャールズ・R.モリス[藪暁彦訳](1993)『コンピューター・ウォーズ、21世紀の覇者
: ポストIBMを制するのは誰か! 』同文書院インターナショナル,pp.36-37)というように、低価格のパソコン市場が将来的に大きく成長する、と確信していたと言われている。後年のNHKのインタビューの中では、「私は、パソコンの分野は非常に将来性が高いので、IBMもこの分野に進出して他社に負けないようになるべきであると強く感じていました。もちろん、パーソナルコンピュータの将来が、最終的にどのようになるかわかっていたわけではありません。ただ、個人や企業向けの小型のワープロへやデータ処理マシンへの需要が大きいことは明らかでした。」[相田洋・大墻敦(1996)『新・電子立国 第1巻 ソフトウェア帝国の誕生』NHK出版,p.242]と述べている。
またIBM PCの開発チームの責任者であったPhilip D. (Don) Estridgeは1982年に受けたインタビューの中で、なぜIBMがパソコン市場に参入したのかという質問に対して、"
The simplest reason is that it represents an opportunity for business.
With the explosion that occurred between 1977 and 1979, it became enough
of a business to be interesting. "と応えて、1977年以降のパソコン市場の急速な発展を市場参入の第一の理由に挙げている。
- IBMにおける「パソコン」的製品開発の試み
1970年代後半期にIBMはパソコン開発に関連してまったく手を打たなかったわけではない。実際、 IBMは1981年のIBM PC以前にも「パソコン」的な製品開発の試みをすでに何度か行っていた。ただ市場で販売できるような商品としてのPCを社内製造を基本として開発することには成功しなかっただけである。
例えば、1973年のSCAMP(Special Computer, APL Machine Portable) project は、General
Systems Division (GSD) が約半年間でプロトタイプを開発した。そのマシンでは、APL(A computer Programming
Language)というインタープリター型(対話型)のプログラミング言語が動いた。
1975年9月には、IBM 5100 Portable Computerが発表された。そのマシンではAPLおよびBASICという二つのプログラミング言語を利用できた。このマシンの名称には
Portable という単語が使われてはいるが、当時の約500kgもするコンピュータと比べてという意味であり、その重量は約23kg(50ポンド)もあった。また搭載メモリ量(16K,32K,48K,64K)および搭載言語によって異なるその販売価格も、右表のように$8,975
〜$19,975という高額のものであった。
IBM 5100シリーズはその後、IBM5110(1978)、IBM5120(1980)、IBM system/23 Datamaster(1980)というように開発が進められた。
IBM system/23 Datamasterは、small business向けの手頃な価格のコンピュータとして1978年2月に開発が開始された。BASICでビジネス用アプリケーション・ソフトを動作させる
こうしたプロジェクトは、それら自体としては結果的に商業的失敗に終わったが、IBM PCの開発プロジェクトにおいてCPUやOSまでも含めた社外資源の活用(アウトソーシング)がIBM社内において「許される」大きな要因となった。
|
|
IBM 5100 Portable Computer
の価格表
|
搭載メモリ量 |
BASIC言語
のみ搭載 |
APL言語
のみ搭載 |
両言語
搭載
|
16KB
|
$8,975
|
$9,975
|
$10,975
|
32KB
|
$11,975
|
$12,975
|
$13,975
|
48KB
|
$14,975
|
$15,975
|
$16,975
|
64KB
|
$17,975
|
$18,975
|
$19,975
|
|
上記のようなIBM社におけるIBM-PC以前のパソコン開発に関わる歴史に関しては、http://www-1.ibm.com/ibm/history/exhibits/pc/pc_1.html以下のWebページがとても参考になる。また"Pop
Quiz: What was the first personal computer?”(http://www.blinkenlights.com/pc.shtml)の中の"Was
it the IBM 5100? "という項目の記述やhttp://www.brouhaha.com/~eric/retrocomputing/ibm/5100/、http://cma.zdnet.com/book/upgraderepair/ch01/ch01.htmなども参考になる。
IBM 5100 Portable Computer(1975)の写真
[出典]http://www-1.ibm.com/ibm/history/catalog/itemdetail_59.html,2002.10.10
- IBMのPC市場参入時の戦略 --- IBMはパソコン市場参入への遅れの不利をどのように克服しようとしたのか?
サ−ド・パーティの活用とオープン・アーキテクチャ方式の採用による短期間でのPC開発
パーソナル・コンピューターの開発は、その当時のIBM会長フランク・ケアリーの個人的プロジェクトとして実行された。ケアリーは「1980年の6月か7月頃、・・・改めてアップルに負けない製品を作るためのプランを立てるよう部下たちに要請した」[相田洋・大墻敦(1996)『新・電子立国 第1巻 ソフトウェア帝国の誕生』NHK出版,p.243]のである。なお当時のIBM社長であったオペル(John
R. Opel)も、「かってIBMがデスクトップ型コンピュータを市場に出すのに失敗した経験があるにもかかわらず、ぜがひでもこの分野で勝利を収めたいという願望」(ジェイウムズ・クボスキー、テッド・レオシンス著、近藤純夫訳 (1989)『ブルーマジックー --- IBMニューマシン開発チームの奇跡』経済界,p.60)を持っており、IBM
PCの開発プロジェクトに賛成したと言われている。
先行の自社開発PCプロジェクトの「失敗」を貴重な教訓として、IBM PCの開発においては、IBMの企業経営委員会(corporate management
committee)に図る時から、@「オープン・アーキテクチャの採用」、A「16ビットCPUの採用」、B「IBM営業部とは直接の関係のない小売店舗網での販売」、という三つが条件であった(Chposky,
James, and Leonsis, Ted.(1988) Blue Magic: The People, Power & Politics
Behind the IBM PC,Facts on File Publications,p.20[近藤純夫訳 (1989)『ブルーマジックー --- IBMニューマシン開発チームの奇跡』経済界,pp48-49])と言われている。
- IBU方式での短期間(1年間)での商品開発
IBM社はパソコン事業への参入の遅れを取り戻すため、これまでの官僚的で開発スピードの遅い組織体制(通常の新製品開発には短くても3年から4年の期間がかかっていた)を見直し、IBU(Independent
Business Unit,独立事業部)方式で商品開発に当たった。なおプロジェクト方式での開発ということ自体は、1964年4月より市場出荷され大ヒットとなった大型コンピュータIBM360シリーズの開発にも取られた方式であった。
- PCの主要部品および周辺機器の外部調達(アウトソーシング)
- IBMのオープン戦略
またIBMは、パソコン市場に遅れて参入したこともあり、IBM-PCに関して回路図やBIOSのソース・コードなど様々な技術情報や仕様を別売の技術マニュアルで公開するというオープン戦略を取った。これは、IBMが市場でのシェア獲得のため、IBM
PCに対応した数多くのソフトウェアや安価な周辺機器が数多く速やかにサードパーティより開発されることを望んだことや、独禁法に対する対応との関係もあった。
オープン戦略に関して、Philip D. Estridgeは1982年に受けたインタビューの中で「We believed that a
very wide array of software would be one of the key factors in the widespread
use of the Personal Computer. There is no way that a single company
could produce that much software; even if it were possible, it would
take too long. So we needed to have the participation of other software
authors and companies. 」と述べている(David Bunnell(1982),"Boca Diary:
April-May 1982",PC Magazine, 1982.4.1
http://www.pcmag.com/article2/0,4149,264444,00.asp)。またWilliam
C. Loweは「パソコンでは、ソフトウェアはいろいろな人がかってに書き、勝手に販売する。・・・・・・すべてをIBMがコントロ−ルするような考え方は通用しません。そこが大型コンピュータとまったく異なる点でした。成功するためにはアップルのパソコン用ソフトウェアよりも数多く、しかも多種多様なソフトウェアをIBMパソコンのために書いてもらわなければならないと思っていました。」と述べている。[相田洋・大墻敦(1996)『新・電子立国 第1巻 ソフトウェア帝国の誕生』NHK出版,p.249-250}
実際、IBMのオープン戦略およびIBM社のブランド力などにより、初期からソフトウェアや種々のPC関連装置の開発に数多く会社が関与するようになった。
なおIBM社は、BIOSのソース・コードを公開はしたが、BIOSの著作権を放棄したわけではなかった。意地悪な見方をすれば、BIOSが公開されたことで逆にIBMの著作権に触れずに互換BIOSを開発することは極めて困難になった。すなわち互換BIOSを開発するためには、IBM社の公開されたソース・コードをまったく見たことのないプログラマーだけで新規にBIOSを開発するというクリーンルーム方式による開発が必要とされた。しかしながらリバース・エンジニアリングによるBIOSの機能解析に基づき、クリーンルーム方式で互換BIOSを開発するには巨額な開発費用を必要とした。例えば、コンパック社は互換BIOSの開発に100万ドルの資金を投入したと言われている。(嘉村健一(1993)『コンピュータ企業の興亡
--- パソコン起業家達のサバイバル戦略』電波新聞社,p.45)
IBM社の予想を超えたIBM PCの大きな成功は、皮肉なことに、こうした巨額な費用をかけて著作権問題をクリアした互換BIOSを開発することを可能にし、結果としてIBM互換機という新たな市場が大きく成長することになった。
アップル社は、Appleに関してはオープン戦略でシェアを伸ばした。アップル社のAppleII がヒットした背景には、BIOSも含めたオープンアーキテクチャ方式を取っていたことがあった。
歴史的に皮肉なことに、アップル社はCPUの16ビット化にともなう新機種Macの販売に当たって、従来からの戦略を変更し、クローズド戦略を取った。
1983年のオフィス用パソコン市場においては、IBMがLotus1-2-3(1982.10発表)などの影響もあり26%でシェアトップに立っていたが、その当時はまだアップル社が21%という第2位ののシェアを占めいた。しかしIBM互換機陣営(コンパックが1982年11月にIBM互換機を発表)が強くなるにつれて、アップル社は徐々にシェアを減らし米国市場におけるシェアは2001年通年では2000年と同じ3.9%といった低い値に落ち込んでいるし、世界市場全体におけるシェアでは、2000年の2.9%から2001年は2.6%へと減少傾向が続いている。
[シェアデータはhttp://japan.cnet.com/News/2002/Item/020328-1.htmlで紹介されているIDCの調査データによる]。
なお、『コンピュートピア』1991年9月号,p.67で紹介されているデータクエスト社のデータによれば、1990年における世界のパソコン市場におけるメーカー別シェアは、1位がIBMで11.9%、2位がアップルで7.5%、3位がコモドールで7.1%、4位が日本電気で5.6%、5位がコンパックで3.9%、6位が東芝で3.7%となっている。)
- IBM PCの拡張性
IBM PCは、Altair8800の18本というほど多くはないが、5〜8本の拡張スロットを有していた。
キーボードとカセットテープを接続するためのインターフェイスはマザー・ボード上に搭載されていたが、プリンター接続などのためのパラレル・ポート、フロッピーディスク、画面表示機能などは拡張スロットに拡張カードを挿すことではじめて利用可能になった。こうしたことが、オープン戦略とあいまって周辺機器へのサードパーティの参入を促進した。
IBM-PCの写真
[出典]http://www-1.ibm.com/ibm/history/catalog/itemdetail_19291.html,2002.10.10
- なぜIBMは、IBM PCに8ビットCPUではなく16ビットCPUを採用したのか?
(1)16ビットCPUの採用を実質的に決定したのは誰か?
「16ビットCPUの採用」という方針が実質的に誰によっていつ頃に決定されたのかに関しては対立がある。
ジェイウムズ・クボスキー、テッド・レオシンス著、近藤純夫訳 (1989)『ブルーマジックー --- IBMニューマシン開発チームの奇跡』経済界,pp48-49では、IBM社が最初から16ビットCPUの採用を考えていたとされている。
これに対して ビル・ゲイツはさまざまな機会に、「IBM社からアプローチがあったと時に、自分の方からIBM社に16ビットCPUを採用するように提言した」のだと述べている。
ビル・ゲイツの証言によれば、IBM社が最初に想定していたPCの技術的スペックは、CPUはその当時主流であった8ビットCPUで、OSはCP/Mというものであった。それに対してゲイツは、商品の技術的競争力の向上のために、16ビットCPUを使うようにアドバイスし、その結果としてIBMが16ビットCPUを使ったマシンを発売することになったということである。
例えば、Robert .S.Cringely著、藪暁彦訳(1993)『コンピュータ帝国の興亡』上巻,アスキー出版局,pp.208では、「ゲイツによれば、IBM側が説明してくれたコンピュータのデザインは、すでに市場に数多く出回っているものと大差のないCP/Mが走る8ビットのコンピュータだった。そこでゲイツはIBMの一団に、発売されたばかりの16ビットプロセッサを使うよう強く薦めたのだ。16ビットプロセッサを使えば、IBM
PCは競合製品より強力な印象を与えることができ、はるかに多くのメモリを載せることができる。・・・一六ビットマシンなら競合機程よりはるかに大きなメモリ空間を使え、市場でも間違いなく有利な立場に立てる。しかも将来、システムの拡張も容易にできる。」と記述されている。
またゲイツは、1975年3月25日号の『PC Magazine』に掲載されたインタビューの中でも次のように同趣旨の発言を繰り返しおこなっている。
- 「IBMの人間が最初に我々に会いに来た時に提示したコンセプトは8ビットCPUのコンピュータであった。・・・我々がIBMに16ビットCPUを採用するに説得したのだ。」("When
they first came to us, their concept was to do an 8-bit computer.・・・we
convinced IBM to go 16-bit ")[http://www.pcmag.com/article2/0,4149,1204,00.asp]
- PC Magazine編集部による「IBM社の中には、Microsoft社を訪問する以前に[16ビットCPUを採用するという]決断を既に下していた、と言っている人もいるが・・」("Some
people at IBM have said that they had already made the decision before they
came to visit you")という質問に対して、「いやそんなことはない。[16ビットCPUを採用することに決めているというような]そんなことは誰も言っていない。Jack
Samsに聞いてみて欲しい。彼ならば知っているはずだ。8ビットマシンでまさにやろうとしていたのだ。Bill Loweだった。 Bill Sydnesは彼の
engineering managerだった。 Lou Eggebrecht が実際の技術的仕事をすべて担当していた。彼らはAppleIIよりも優れたマシンを作りたいと思っていた。彼らが準備のために[マイクロソフトに]最初に訪問して来た時、インテル社はまだ低価格で8088を提供すると約束してはいなかった。彼らの厳しいスケジュールの観点から言えば、8ビットマシンの方が好ましい、すなわち、正しい選択は8ビットマシンである、と思われた。16ビットマシンを選択したことで、彼らはスケジュールに関していくらかのリスクを抱えることになった。"(Oh,
no chance. No one says that. Go ask Jack Sams, the guy who would know. It
was all about doing an 8-bit machine. It was Bill Lowe. Bill Sydnes was his
engineering manager, and Lou Eggebrecht was doing all the real engineering
work. And they wanted to do a machine better than the Apple II. When they
first came up to visit on the preliminary visit, Intel hadn't made the commitment
that they would do a low price 8088. An 8-bit machine seemed like, in terms
of the schedule they had which was hard core, it would have been the right
choice. By doing a 16-bit machine, they took some schedule risks.")と言って反論している。[http://www.pcmag.com/article2/0,4149,247053,00.asp]
(2)どのような技術的理由から8ビットCPUではなく、16ビットCPUが採用されたのか?
- 8ビットCPUのメモリ空間の制限の克服
当時の8ビットCPUで取り扱えるメイン・メモリの容量は64Kであった。このメモリ量は当時のアプリケーション・プログラムにとっても、大きな制限となっていた。例えば、そのため、
- なぜIBMは、IBM-PCに8088を選択したのか?
IBM PCの開発当時に利用可能な16ビットCPUとしては、インテル社の8088と8086、モトローラ社の68000、ナショナル・セミコンダクター社の16032、ザイログ社のZ8000などがあった。
インテル社の16ビットCPUは、使えるメモリ空間が1Mバイトに限定されているだけでなく、その1Mバイトのメモリ空間も64Kバイト単位のセグメントに分割されておりリニアには使えないなどCPUのアーキテクチャから言えばあまり「美しくない」ため「技術」的評価は相対的には低かった。これに対してモトローラ社の68000は、16Mバイトのリニアなメモリ空間が確保できるとともに、DECのミニコンに類似したアーキテクチャでより洗練されており、「技術」的評価は高かった。
例えば、「インテルの顧客は口々に、このプロセッサは優れものだと言った。数年前に8080と6800が比較されたときにもセールス部隊はこの種の嫌みをあちこちで聞いたが、今回はそれ以上だった。なじみの顧客はモトローラ製品を、設計、処理速度、価格、そして使い勝手とあらゆる面から誉めたたえた。」(ティム・ジャクソン(Tim
Jackson,渡辺了介・弓削徹訳,1997)『インサイド・インテル』上巻,翔泳社,p.309)と言われている。
実際、その後、パソコン用のCPUとしてはインテル系CPUの方がより広く普及したが、パソコンよりも高価格で高性能のWS(ワークステーション)用のCPUとしてはモトローラ系CPUの方がより広く普及した。このようにモトローラ系CPUの方が「演算」性能やアーキテクチャなどの「技術」的性能は高かった。
上記のような「技術」的評価にも関わらず、IBM社はインテル社の8088というCPUを最終的には選択した。「電卓上がりのプロセッサ」などと揶揄された(電卓用に開発された4004というルーツを持つことから、このように呼ばれた)インテル系CPUの方をIBMは選択したのである。IBM社は16ビットCPUの採用にあたって、技術的評価の高かったモトローラ系ではなく、インテル社のプロセッサをなぜ選択したのであろうか?
しかもなおインテル社製CPUを選択するにしても、マイクロソフト社のビル・ゲイツが推薦したと言われているより8086ではなく、性能の劣った8088をわざわざ選択したのであろうか?というのも8088は、CPU内部では16ビット処理をしているが、外部バス幅がわざと8ビットに制限しているために、内部・外部とも16ビット処理を行っている8086よりも性能的に劣っていたからである。
当然のことながら、PC市場参入時におけるIBMの技術的選択を巡っては上記のような疑問がすぐに思い浮かぶであろう。しかしながら、下記に詳しくのべるように、開発時間の限定、利用可能な技術的リソースの限定、コスト/パフォーマンスなどの問題を「技術」的視点から総合的に判断すれば、IBM
PCの開発チームが下した技術的決断は合理的な選択であった、と思われる。
1)コスト削減
- 調達CPUそれ自体のコスト低減(8086よりも、8088のほうが価格は安い)
この点に関して、インテル社のゴードン・ムーアは「今となっては歴史的な商談を振り返ってみても、IBMが納入価格の引き下げにこだわって、われわれも製品の設計を一部変更してこれに応じたことくらいしか記憶にない。受注の決め手はインテルが値下げ要求に応じたことだった。」(ゴードン・ムーア
述、玉置直司取材・構成『インテルとともに : ゴードン・ムーア私の半導体人生』日本経済新聞社、1995年、p.98,『日本経済新聞』1995年2月19日朝刊でも同趣旨のことを述べている。)と自らの自伝的回想の中で述べている。
C.H.ファーガソン,C.R.モリス[藪暁彦訳](1993)『コンピューター・ウォーズ』同文書院インターナショナル,p.41によれば、インテル社のIBMに対する8088の販売価格は1個9ドルであった。
ムーアは上記のように証言しているが、CPUそれ自体の価格の低さが技術的選択の決定的ポイントであったかどうかに関しては疑問がある。IBM
PCの開発チームが置かれていた歴史的状況を考慮すると、、「コスト削減問題がなかったとしても、IBM社は8088を選択せざるを得なかった」のではないかとも考えられる。
例えばR.S.Cringelyは、IBM社内における政治力学の関係上「8088がほかのプロセッサほど強力ではなかったことが、IBM[の開発チーム]から見ると実は利点だったのだ」([]内は引用者が補ったのものである)として、「旧式の周辺チップを使えることもあって、8088はほかのプロセッサより安価だった。そしてインテルは意図的に、8086より安い価格を設定していたのである。だがIBMが採用を決定するうえで、価格は重要なポイントではなかった。」[Robert
.S.Cringely著、藪暁彦訳(1993)『コンピュータ帝国の興亡』上巻,アスキー出版局,pp.209-210]としている。
IBM-PC開発チームの8088の技術的選択に関わる決定的なポイントが何であったのか
- 全体的な製造コストの引き下げのための技術的選択
外部データ・バス幅が8086の半分の8ビットであるi8088の方が、マザーボード上のデバイス数や回路基板のバス配線などが少なくて済み、パソコンのトータルな製造コストを下げることが可能である。
2)関連周辺回路の開発期間の短縮
- 8088というデータバス幅が8ビットのCPUを採用することで、周辺回路の規模が8086に比べ相対的に小さくなり開発期間の短縮が可能になる。
- 新規開発が必要なカスタム・メイドの部品をなるべく使わなくても済むようなCPUとしては、外部データバスが8ビットで既存の8ビットCPUの周辺チップを使える8088の方が都合が良かった。----次項のハードウェアの「互換性」問題参照
3)先行する8ビットCPUパソコンとの互換性問題
---- ソフトや周辺回路部品など先行の歴史的資産の活用 ----
IBM社は、パソコン市場への新規参入にあたり、ソフトウェアやハードウェアに関する下記のような先行の歴史的資産を生かそうと考えた。 そのためにはCPUそれ自体に先行のCPUとの歴史的連続性=互換性が必要であった。そうした歴史的連続性=互換性という点から言えば、8088は「技術」的に極めて優れたCPUであった。
- <既存ソフト資源の活用活用可能性>8ビットプロセッサとして成功していたIntel社の8080およびZ80などの互換CPUの上で動いてた人気ソフトに、表計算ソフトのVisiCalc、ワードプロセッサのWordStar、データベースソフトのdBaseIIなどがあった(なおOSはCP/Mであった)。そうした人気ソフトの移植、および、8ビットCPU用にソフトを書くことに熟練したプログラマーの存在を考えた場合、CPUそれ自体に8ビットCPUとの連続性(互換性)が一定程度あったほうが有利である。
その点、 8088や8086は、8bitCPUとしてヒットしたインテル社の8080やZilog社のZ80などとの互換性を強く意識して作られており、8080およびその互換CPUをターゲットととしてアセンブリ言語で記述されたプログラムであれば、わずかな書き換えだけでで動かすことができた。(8080Aや8085A用にアセンブラ言語で書かれたソース・コードを8086用のアセンブラ言語のソース・コードに変換するソース・コード・トランスレータも提供されていた。)
CPUに関するこうした先行資源の利用可能性という問題はOS競争の場面においても同様であった。8ビットパソコン時代のデファクト・スタンダードのOSであったCP/M-80の開発元であるデジタル・リサーチ社は、IBM
PCの発売時には間に合わなかったがしばらくして、インテル社製16ビットCPUパソコンに対応したOSとしてのCP/M-86の開発を終了した。IBMやNECは、自社製マシンのOSとしてマイクロソフト社のMS-DOSとともに、デジタル・リサーチ社のCP/M-86をも合わせて販売していた。それゆえ、ユーザやソフト会社はOSとしてはMS-DOSだけでなく、CP/M-86も利用できた。最終的にどちらのOSが生き残るのかは、ハードメーカーではなく、ユーザーやソフト会社の選択に委ねられたのである。CP/M-86はマスコミの好意的な評価にも関わらず、強気の価格設定やMS-DOSと異なりIBM
PCの初期出荷の時期に間に合わなかったことなど様々な要因の結果として、結局のところはマイクロソフト社のMS-DOSが市場を制した。
MS-DOSとCP-M/86のOS競争において最終的にMS-DOSが勝利した技術的要因の一つには、ディスクを管理するFATのデザインやシステム・コールの仕様などで、MS-DOSのほうがCP/M-80との互換性が高かったことがあると言われている。「デジタルリサーチが、16ビット用ということで、CP/M-86に豊富な機能を盛り込んだのに対し、MS-DOSは、インテルの8086の設計思想と同様に、8ビットとの互換性を重視したのである。結果として素直に16ビットへの移行が行えるMS-DOSのアプリケーションが増加し、CP/M-86は消えていった。」(下川和男「ビル・ゲーツに囲まれて(前編)
---- Windows HeartBeat #10」『月刊Windows World』(発行:IDG社)1994年5月号、http://www.est.co.jp/ks/billg/10_GATES.htm)のである。
- <既存周辺回路の活用可能性>8088は周辺回路(LSI)とのインターフェイスに関して8080との互換性を重視した設計になっている。そのため、割り込みコントローラ(8259)、DMAコントローラ(8237)、カウンター/タイマー(8253)、シリアル・インターフェース、パラレル・インターフェイスなどに関して、8080用の各種の周辺回路を利用することができた。
インテル社の8086、モトローラ社の68000、ナショナル・セミコンダクター社の16032という3つの16ビットCPUは周辺チップをその当時まだ開発中だった。(A.
Jackson, Tim, Inside Intel: Andy Grove and the Rise of the World's
Most Powerful Chip Company, Penguin Putnam, New York, NY, 1997によれば、モトローラはCPUの設計に遅れていた。)それゆえ、PC製造に必要な周辺チップ(例えば、割り込みコントローラ、シリアル・インターフェース、パラレル・インターフェイス、DMAコントローラ、カウンタ、タイマなど各種のインターフェイス用LSIなど)を新規に開発する必要がない16ビットCPUとしては、インテル社の8088しかなかった。
4)IBMにおける先行プロジェクトの活用 ---- 先行プロジェクトで蓄積された知識・経験・部品の活用
IBM-PCに先行する開発プロジェクトとしてIBM System/23 Datamaster(1981年発表)というマシンがあったが、IBM
PCの開発に携わったエンジニアたちの多くは、そのマシンの開発に関わっていた者たちであった。IBM Datamaster/23は、CPUとしてはインテル社製の8ビットCPU8085を使っていた。それゆえDave
Bradleyが「われわれは、Datamasterでインテルのプロセッサーを使って仕事をしていたので、インテルのプロセッサーに慣れ親しんでいた。」("We
were familiar with the Intel processing family, having worked with them
on the Datamaster")と語っている(Jim Battey"Big Blue birthday: IBM
PC turns 20",2001.8.12,http://www.cnn.com/2001/TECH/ptech/08/10/IBM.open.arch.idg/)ように、IBM
PCの開発者たちはインテルCPUのアーキテクチャを熟知していた。
William C. LoweがIBMの企業経営委員会に提出したIBM PCの最初のプロトタイプ機は、IBM System/23 Datamasterに手直しを施したもので、使用していたCPUはDatamasterと同じ8085のままであった。
Datamasterの活用という点では、IBM PCの拡張スロットの仕様も新たに考案されたものではなく、Datamasterの拡張スロットの仕様を少し手直ししただけのものであった。(David
Bradleyによれば 信号の定義(signal definitions)を5カ所ほど手直ししただけのものであった。)
こうしことがIBM PCにおけるインテル製CPU採用の一つの要因であった。(Stacy Cowley,"Break out
the candles: The IBM PC turns 20",ITworld.com,2001.8.8 http://www.netscapeworld.com/Comp/1220/IDG010808PC20/)
なおIBM社はワープロ専用機I「DisplayWriter」の開発に当たってはインテル社のCPU8086を使用していた。しかしDavid
Bradleyによれば、この「DisplayWriter」の開発プロジェクトはIBM PCとは無関係であった、と証言している。("IBM
did have a computer facility in Austin, but according to David Bradley,
the Austin group worked on IBM's DisplayWriter, an 8086-based system.
The Austin operation approached desktop computers from the perspective
of large-business users, and it was not involved with the development
of the PC. Bradley also says IBM had many small projects under way,
but Project Chess was the only “small computer project with more than
10 people working on it.” http://www.e-insite.net/tmworld/index.asp?layout=article&articleid=CA187350)
5)同一社内における商品としての差異化のための、技術的性能のスペック・ダウン
IBM社の製品構成から考えた場合、IBM PCの技術的性能はさほど高い必要はなかった。8088というCPUの性能が他の16ビットCPUよりも相対的に低いことは、IBM社内の製品構成から考えると逆にメリットであった。
というのもIBM PCの性能が高ければ高いほど、IBM社の他のマシンンの売れ行きが鈍ると考えられた。というのも、性能的には優れていたが価格がかなり高かったからである。そこでIBM
PCの開発に当たってIBM PCは「わざと処理速度を落とす」ように設計されたのである。
この点に関して、IBM PCの開発プロジェクト・チームに最初から参加していた技術者のウィリアム・シドネス(Bill Sydnes)は「8086の馬力はとてつもなく強力なものであった。このチップを利用すれば、IBMがすでに市場に出していたり、またはこれから市場に出そうとしている製品の排気口を広げなくてはならなかったろう。だから、私たちは性能は多少落ちても、8088を利用することに決めたのである。・・・・この選択は非常に賢明なものだったといえよう。なぜなら8088を使う意向だといったおかげで、IBMのあらゆる管理網の目をスルスルと通り抜けることができたからだ」(ジェイウムズ・クボスキー、テッド・レオシンス著、近藤純夫訳 (1989)『ブルーマジックー --- IBMニューマシン開発チームの奇跡』経済界,p.55)
と回想している。
IBM社内の政治力学的配慮の問題に関して言えば、IBM PCに対してメインフレーム・マシンの端末機能をわざと持たせなかったことにもそのことが示されている。様々なメインフレーム・マシンの端末をエミュレートさせる機能をIBM
PCに付加するのは簡単だったが、そうなるとIBM社のこれまでの端末ビジネスが立ちゆかなくなるため、結局のところそうした機能は搭載されなかった(ロバート・X・クリンジリー(1993)『コンピュータ帝国の興亡』上巻,アスキー出版局,p.210)
と言われている。
6)オプション部品による性能向上の可能性
8088の利点は、数値コプロセッサー8087によって浮動小数点演算能力を高めることができたという点にもある。(この点は8086も同じではあった。)"The
Acorn prototype would also accommodate Intel’s 8087 math coprocessor,
a chip that would perform floating-point math operation at high speed,
thus reducing the processing burden placed on the 8088 CPU. Intel didn't
have the 40-pin 8087 chip ready when the IBM engineers produced the
prototype, but they wired a socket for it anyway. As a result, the production
IBM PC came with an empty 8087 socket for a user-installed math chip.
" http://www.e-insite.net/tmworld/index.asp?layout=article&articleid=CA187350、数値コプロセッサーによって数値計算能力を高めることができるというこの点は、インテル社も自社の技術的強みとして意識し、モトローラ社に対抗するために作成した将来製品の紹介カタログのトップページで数値コプロセッサー8087を「組み込めば(モトローラ社の16ビットCPU)68000の5倍のスピードで数値計算ができる」ことを強調していた。ティム・ジャクソン(Tim
Jackson,渡辺了介・弓削徹訳,1997)『インサイド・インテル』上巻,翔泳社,pp.314-315)
- IBM PC発表当時の他社パソコンとの基本構成の比較
機種名 |
年月 |
CPU |
メインメモリ容量 |
外部記憶装置 |
ソフト |
基本価格
(1981.10当時) |
名称 |
動作
周波数 |
bit幅 |
IBM-PC |
1981.10 |
Intel 8088 |
4.77MHz |
16 |
RAM 16KB
(max 256KB)
ROM 40KB |
160KBの
5インチFD 2台 |
PC-DOS
CP/M-86
USCD P
ROMの中に
Microsoft BASIC
|
$1,565 |
AppleII |
1977.4
|
MOS Technology
MOS6502 |
1MHz |
8 |
RAM 16KB
ROM 12KB
(RAMとROMを
合わせてmax 64KB)
|
140KBの
5インチFDD1台 |
ROMの中に
AppleSoft BASIC
|
$1,330 |
AppleIII |
1980.6
発表 |
Synertek
MOS6502A |
2MHz |
8 |
RAM 128KB
(max 256KB)
ROM 4K |
143KBの
5インチFDD1台 |
|
$4,690 |
Xerox
モデル820 |
1981.7 |
Zilog Z80 |
|
8 |
RAM 64KB
ROM 4KB |
94KB の 5インチFD 2台
300KB の 8インチFD 2台 |
CP/M
BASIC |
$2,995 |
[出典]
[補注]
- IBM-PCの売り上げ
IBMがパソコン市場に参入した当時、APPLE社はIBM PCがそれほど売れるとは考えてはいなかった。IBM PCの市場競争力は低いと考えていたのである。そう考えていたこと、および、IBMという社会的に信用力のある会社がパソコン市場に参入してきたことにより、APPLE社がAPPLEシリーズ+VisiICalcでターゲットとして想定しているビジネスマン向け市場がこれまで以上に拡大すると考えたこともあり、The
Wall Street Journal に"Welcome IBM, seriously."というタイトルの1ページ全面広告を打ったほど、IBMの市場参入を歓迎した。
実際、IBMがIBM PCを1981年10月に発売を開始した直後の四半期(1981年10〜12月)のApple社の売り上げは、前年同期(1980年10〜12月)の6760万ドルに比べ98%増の1億3360万ドルという絶好調ぶりであった。その意味でパソコン市場の本格的な立ち上げを期待してAppleがWall
Street Journalに歓迎広告を掲載したことは、その時点においては(後知恵的に見た場合は別として)決して的はずれなことではなかった。パソコン市場へのIBMの参入は、Apple社にとって短期的には決してマイナス要因ではなかった。
しかしIBM PCはApple社のそうした予想およびIBM社自身の予想をも超えて大ヒットした。ただしIBM PCが予想を超えて非常によく売れたことでは一致しているが、その具体的な売り上げデータに関しては、下記のように資料によってかなり異なっている。
なおIBM PCは社会的な現象となり、『TIME』誌は1982年の"Man
of the Year"に人間ではなく、コンピューター を選出した。(http://www.time.com/time/special/moy/1982.html参照)その解説記事によれば、パソコンの販売台数および市場規模が、1980年には72万4千台で18億ドルであったのが、IBMが参入した1981年には140万台で30億ドルになり、1982年には280万台で49億ドルにまでなると推定されている。さらに同記事では、1000ドルから5000ドルの価格帯のパソコンのシェアは、第1位がアップルで26%、第2位がIBMで17%、第3位がTandy/Radio
Shackで10%となっている。(Dataquestの推定値)
1982年>IBM PC 20万台 vs AppleII 30万台
- 嘉村健一(1993.11)『米コンピュータ企業の興亡 : パソコン起業家達のサバイバル戦略』電波新聞社,pp.36-37
「IBMのパソコンに村する期待は、パソコンチームの予想をはるかに超えていた。最初に殺到した需要に応えて出荷されたのは、この年わずかに1万数千台に過ぎなかったのである。そして1982年に、20万台を出荷してもまだ需要に追い付かなかった。IBMが需要に村応出来るようになるには、さらに2年の時間がかかっている。1984年になってようやくIBMが販売店のシェルフ、すなわち販売店の製品の陳列棚を、小売店の要求に応じて埋めることが出来るようになるまでの間に、その隙間をついて販売店のシェルフを巧みに埋めてブランドを確立したのが、まったくの新興メーカーであるコンパックであった。」
- ロバート・X・クリンジリー(1993)『コンピュータ帝国の興亡』上巻,アスキー出版局,p.240
IBM-PCは出荷後4ヶ月間で5万台を売り上げた。(これに対して、アップル社は1981年1年間で13万5千台の販売台数であった。)
- C.H.ファーガソン,C.R.モリス[藪暁彦訳](1993)『コンピューター・ウォーズ』同文書院インターナショナル,p.44
「1981年最後の4カ月間に、IBM PCの収入は4000万ドルを超えた。販売台数が予想をはるかに上回っていたことから、収益も予想を大きく上回っていた。そして、発売から3年経過した1984年には、IBM
PCの収入は40億ドルまで跳ね上がったのである。もしこれが単独の事業だとしたら、PC事業部は一万人の従業員を抱えるアメリカ国内74番目の製造会社ということになる。また、コンピューターメーカーとしても、IBM、DECに続いて第3位だ。」
- Michael R Zimmerman & Lisa Dicarlo,PC WEEK/USA
http://www.zdnet.co.jp/pcweek/news/9912/22/991222_v2000_03.html
「IBMはビジネスにおけるPCの利用について弱気だった。IBMは1981年4月(「5150 PC」の正式発表の4カ月前),PCの業務事例に関するプレゼンテーションを行い,5年で24万1683台のPCを販売すると予測した。IBMのブラッドリー氏は,「精度は注目すべきだが,正確さが大幅に欠けていた」と話している。彼らは25万台のPCを1年間(原文では1カ月となっているが、これは間違いである)で出荷してしまったのだ。
」
- LESLIE JAYE GOFF,"Technology Flashback -- 1982: The Rise of Sun
", 1999.8.23
http://www.computerworld.com/news/1999/story/0,11280,42776,00.html
IBM社は、IBM PCの出荷後8ヶ月の1982年4月までに5万台を販売し、1982年7月までには20万台を出荷した。(By April,
only eight months after the introduction of the IBM PC, Big Blue has
sold 50,000 units, and by July, it ships its 200,000th PC. )
- Rachel Konrad,"Mixed
record as PC turns 20 ",2001.8.10
http://news.com.com/2009-1040-271422.html
IBMでさえもその小さなマシンを完全には信じてはいなかった。Senior excutivesは需要を過小評価しており、もともとは1981年から1986年にかけて241,683台を販売する計画であった。実際には、1年間でほぼそれくらいの台数を売り、5年間で300万台を販売した。(Even
IBM didn't fully believe in the little machine. Senior executives greatly
underestimated demand, originally planning to sell 241,683 PCs from
1981 to 1986. Instead, it sold about that many in the first full year
and 3 million during the first five years. )
- S.T.マクレラン(1985)『コンピュータ産業の大波乱』講談社,p.317
「販売量は1981年の2万5千台から、翌年には19万台に伸び、翌々年の1983年には70万台を超えた。」