板倉聖宣『模倣の時代』仮説社、1988年 上巻 442頁・下巻 620頁
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●本のタイトルの意味
この本のタイトル『模倣の時代』とは、「何でもかでも欧米の文化を模倣して、日本の文化を高めようとみんなが懸命になっていた時代」(同書,p.8)としての明治以後の時代のことを指している。
著者によれば、「明治以後、日本は欧米の文化をまるごと取り入れるようになって、ついに今日の日本をつくりあげることに成功したのだ。それは、〈世界史上かつてない文化輸入の成功例〉と言われることもある。その時代は「模倣の時代」と呼ぶこともできる時代であった。医学の分野では、明治以後、東京大学医学部を中心にドイツ医学を全面的に取り入れるようになった。そして、ドイツの医学者コッホに始まる細菌学などを学んで、流行病の普及に対して日本の医療体制を近代化することに成功した。」(同書,p.8)のである。
●西洋文化の<模倣の時代>であった明治時代における脚気問題をなぜ著者は取り上げたのか?
東南アジアには<ベリベリ>という脚気に似た病気があったが、不思議なことにヨーロッパやアメリカでは脚気およびそれに類似した病気は、見られなかった。脚気およびそれと類似した病気のベリベリは、主として米を主食とする地域の人々だけがかかるのである。それゆえ、「この病気に関してだけは欧米の医学者たちも、日本の医者の質問に的確に答えることはできなかった。そこで、脚気ばかりはどうしても日本人自らその予防と治療の方法をさぐり、その病原をつきとめなければならなかったのである。つまり、脚気克服の歴史は、「模倣の時代」の中にありながら、その模倣の枠を乗り越えて創造的解決していくことが問題になった歴史であった。」(同書,p.9)からである。
しかし皮肉なことに、「「模倣の時代」というのは、エリートであればあるほど創造的に考えることを恐れる時代でもあった」のであり、「模倣の時代」という時代制約の枠を超えて前進することは、「口で言うのはやさしくとも、それを実行するのはとてもむずかしいことであった」から、「その歴史は波欄に満ち、時にはとても生臭い歴史ともなった。」(同書,p.9)のである。
本書は、<模倣の時代>に「どのような人々がいかにしてその創造性を発揮して脚気の予防・治療法を開発していったか。そして、それをどんな人々が妨害し、弾圧・抑圧さえしたか」(同書,p.9)というそうした歴史を描いたものである。
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脚気の予防治療法の開発者達と、その抑圧者達の物語
どんな人、どんな制度が創造性を発揮し、だめにしたか
明治以降、日本は欧米の文化を模倣することに奮闘してきた。しかし、幕末から深刻な社会問題となった米食地帯固有の奇病「脚気」についてはお手本がなかった。その予防治療法だけは日本人が自ら創造性を発揮して解明しなければならない最初の、しかも重大な問題であったのだ。徳川十三代将軍も十四代将軍も和宮も脚気で病没。さらに近代化の波とともに脚気は学生と軍隊の間で大流行しはじめ、とくに軍医たちを悩ませることになった。しかし、原理はわからなくても治療はできる。自らも患者となった明治天皇は洋方医の処方を振り切って麦飯で脚気を克服し、軍隊ても高木兼寛や堀内利国の努力によって食事の改革が行なわれ、 一時は脚気の撲滅も間近とさえ思われた。しかし、これは新しい戦いの開幕にすぎなかった。ドイツ帰りの軍医森林太郎を筆頭とする東大医学部系の医学者たちが、麦飯派に対して大反撃を開始したのである。
「創造性とは何か。「小説よりも奇」なる歴史の真相は、創造性がまさに社会組織の問題であることを凄まじい迫力で示す。
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ビタミンの研究の発見者たちと、その妨害者たちの物語
どんな人、どんな制度が創造性を発揮し、だめにしたか
陸軍からもほぼ姿を消したかに見えた脚気病は「日清・日露戦争」において再三暴威をあらわにした。脚気による損害が一戦闘によるそれをはるかに上まわったのである。それは陸軍軍医の中枢を握る反麦飯派が戦時体制を利用して戦場に白米を送った結果であった。さすがに戦後は「戦場での大量殺人犯」を追求する声が沸きおこった。しかし、森林太郎・青山胤通の東大医学部コンビはそれを頑としてかわし、さらに人気作家の村井弦斉が繰り広げた米ヌカキャンペーンとそこに示された大衆的支持に反発して都築甚之助の画期的な「米ヌカ」の研究を弾圧しにかかったのである。が、それは都築の新薬開発をを加速することになった。一方、植民地における奇病「ベリベリ」の研究から、欧米の医学者たちの関心は米ヌカにも含まれれる新物質に注がれるようになっていた。その情報に愕然とした医学界の中枢は、混乱の中にも栄光の横領にとりかかる。
「創造性のメカニズムを浮き彫りにする壮大な科学史ロマン、創造の時代へと転換を迫られる現代にひときわ光りを放つ。
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事のおこり 新しい時代の開幕と脚気問題 --- 明治維新と医学の西洋化 ――
第一章 西洋医の奥医師登用 ―― 第十三代将軍家定の突然の死 13
第二章 森林太郎の誕生 30
第二章 第十四代将軍家茂の死 38
第四章 明治維新と医学 46
第五章 医学の西欧化を推進した人々 51
第六章 脚気の流行と陸海軍の軍医たち 61
第七章 民間における脚気の流行 73
第一部 天皇の脚気と、脚気病院における漢洋の脚気相撲 81
--- 遠田澄庵の野望か、西洋医たちの陰謀か ---
第一章 西南戦争と天皇の脚気――遠田澄庵の出番 83
第二章 明治天皇の脚気論―脚気病院の構想 97
第三章 脚気病院の発足 110
第四章 脚気病院の外での脚気研究の盛行 123
第五章 脚気病院の人事 129
第六章 遠田澄庵の「野望」か、西洋医学官僚の「陰謀」か 139
第七章 皇子・皇女の養育問題と漢方医の登用 149
第八章 脚気病院の成果 153
第九章 遠田澄庵の治療成績 --- 脚気の真因と、その処方の適否 160
第十章 脚気とその治療法の歴史 173
〔年表〕 一八五八年〜一人八一年…………………182
第二部 高木兼寛の兵食改善による脚気撲減作戦 185
--- 陸軍と東大の脚気論と緒方正規の脚気薗発見 ---
第一章 天皇の脚気再発と皇子女養育問題 187
第二章 海軍軍医・高木兼寛の登場 195
第三章 高木兼寛の「栄養障害仮説」の成立 200
第四章 兵食改善実施の第一歩 211
第五章 高木兼寛、脚気病対策を上奏 224
第六章 軍艦筑波による脚気予防実験 233
第七章 明治十七年における食物説と反食物説
--- ショイベの脚気論と漢方医の中での一因説二因説論争 248
第八章 陸軍軍医本部次長石黒忠悳の脚気論と東大教授大沢謙二の非麦飯説 256
第九章 東大医学部の卒業生たち 271
第十章 陸軍軍医森林太郎の登場 276
第十一章 緒方正規の脚気菌の発見 289
〔年表〕 一八八二年〜一八八五年…………………300
第三部 麦飯による脚気絶滅作戦の成功と軍医本部・東大医学部の対応 303
--- <論より証拠>と<証拠より論>の争い ---
第一章 陸軍軍医堀内利国の登場 305
第二章 監獄での脚気激減の事実 315
第二章 陸軍大阪鎮台における麦飯の採用 331
第四章 海軍における麦飯の採用 342
第五章 大阪鎮台と近衛歩兵聯隊における麦飯実施の成果 350
第六章 天皇の脚気根治と堀内利国の光栄 358
第七章 <論より証拠>と<証拠より論> 367
第八章 陸軍現場部隊における麦飯の普及 377
第九章 内務省技師北里柴三郎の登場 384
第十章 森林太郎の脚気論 393
第十一章 北里柴三郎による恩師緒方の脚気菌批判 401
第十二章 帝国大学教授三浦守治による減損療法の採用 415
第十二章 三浦守治の青魚原因説 421
第十四章 榊順次郎の黴米中毒説と森林太郎の脚気統計論 433
〔年表〕 一八八四年〜一八九二年…………………440
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第四部 頑逃なる秀才が天下をとったとき
--- エイクマンの<ニワトリの日米病>の発見と追試 --- 7
第一章 新しい対立の構図(一)
--- 北里柴三郎の帰国と伝染病研究所の設立をめぐる争い --- 9
第二章 新しい対立の情図(二)
--- 森林太郎の<傍観機関>による<老策士>批判 --- 21
第二章 日清戦争と脚気 33
第四章 海軍軍医の陸軍兵食批判と石黒忠恵 46
第五章 半白翁と長曽子陽獄孤士の脚気論争 59
第六章 エイクマンの<ニワトリの白米病>の発見と紹介
第七章 <ニワトリの白米病>の追試と評価 84
第八章 石黒の引退と小池正直の<変節>
第九章 北清事変と脚気 114
第十章 森林太郎の反撃
--- 「脚気減少は果たして麦を以て米に代えたるに因する乎」--- 118
(年表〕 一八九二年〜一九〇三年…………………134
第五部 日露戦争における脚気大量発生問題
--- 臨時脚気病調査会の成立 ---
第一章 鶴田禎次郎の『日露戦役従軍日誌』 139
第二章 日露戦争と脚気 154
第二章 小久保軍医による脚気細菌と免疫血清の<発見> 167
第四章 都築甚之助の脚気細菌に関する研究 174
第五章 小池正直陸軍医務局長の弁明 183
第六章 アメリカ軍医の見た日露戦争の衛生問題 191
第七章 半白翁の陸軍<脚気大量製造責任>追及 200
第八章 明治四十年の脚気論争 215
第九章 森林太郎の医務局長就任と臨時脚気病調査会の成立 222
第十章 臨時脚気病調査会の発足 234
第十一章 愛国生の「脚気病予防叢談」と脚気論争 247
第十二章 バタビア地方の脚気事情 257
第十三章 臨時脚気調査会における<脚気予防主食対照実験>の結果 274
〔年表〕 一九〇四年〜一九〇八年…………………286
第六部 日本での脚気の部分的栄養欠乏説の成立 289
--- 新しい脚気研究の時代を開いた人々 ---
第一章 新しい脚気研究時代の開幕 --- エイクマンの米糠の自米病予防・治療効果の追試 --- 291
第二章 どんな人々が新しい時代を開いたか 299
第二章 細菌学者志賀潔の「非細菌説」 307
第四章 農学者古在由直らの米の栄養研究 322
第五章 都築甚之助の意見変更 332
第六章 ジャーナリスト村井弦斉による米糠療法の宣伝普及 345
第七章 都築甚之助の臨時脚気病調査会委員罷免 359
第八章 都築甚之助による脚気糠療法の確立 374
第九章 またも泥沼化した新しい脚気論争 触
第十章 鈴木梅太郎の<アベリ酸>の発見 397
第十一章 遠山椿吉の<銀皮酸>の発見 --- 三浦守治の引退 --- 410
第十二章 <ビタミン概念>の導入 420
第十三章 遠山椿吉の<脚気病原の研究>と岡崎桂一郎の『日本米食史』
〔年表〕 一九〇九年〜一九一二年…………………442
第七部「ビタミンB1欠乏説」の確立
―日本における脚気の絶滅―
第一章 伝染病説の反撃
--- 一九一四(大正三)年の東京帝大、青山胤通・林春雄 --- 447
第二章 志賀潔の林春雄反批判と伝染病研究所の東大移管問題 463
第三章 東大派の糠エキス効果の確認 --- そして青山胤通の死 ---
第四章 騒然となった内科学会
--- 一九一八(大正七)年、最後の都築甚之助いじめ --- 491
第五章 島薗順次郎の宿題報告と脚気研究の大転回 508
――森林太郎の『衛生新編』――
第六章 脚気のビタミン欠乏説の確立
--- 臨時脚気病調査会の廃止と森林太郎の死 --- 522
第七章 帝国学士院賞とノーベル賞の受賞 --- 都築甚之助「学勲表彰会」--- 531
第八章 日本における脚気の絶滅
--- ビタミンB1の合成と「米穀掲精等制限令」「栄養改善法」 --- 545
〔年表〕 一九一四年〜一九五九年…………………556
結語 559
つけ足し 562
話のあらまし 585
主要登場人物の略歴 599
概観年表 602
あとがき 603
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